ジーナの日常

ネガティブです。モデルママやセレブママ、独身女子に対する劣等感。毒を吐きながら、幸せさがしてますがなにか。

震災の教訓。あの時、、あの場所で。

わたしは、学校にいた。

そこは、すぐさま非難所になり、役場や政府に何を言われるでもなく、先生がたが指揮をとり避難所の運営をした。

もちろん。

みなが被災者だ。



先生のなかには、
自ら連絡の取れない妊婦の妻と子供を探しに出て、、、

変わり果てた姿の家族をだき抱え帰ってきた人もいる。


非常勤講師の若者でさえ、実家には帰らずココ学校で、

生き残った生徒をさがした。



校長と教頭の無能さに呆れ、
『今こそ教員生命をかけて、戦うべきだ』
と戦った体育科の先生がいた。


そうやって避難所はまわっている。


運営する人が、当たり前ではない。
みな、犠牲を追ってでも引き受けている。

その中には、息子をなくした保護者もいた。
津波に共に流され、後一息のところで、繋いだ手が離れたという母親が、避難所の手伝いをかってでるのだ。


避難所には、いろんな人が来た。

そんなときの先生がたの本心をあえて書こう。



『生徒の安否確認をしたい!!!』




だ。
自分のうちに帰りたい。
でも、
わが子のもとにかえるでもなく、
避難所の運営でもなく、
それが一番の心の底の声だった。。。


それが、教員だ。

教員が蔑まれる世の中だ。
教鞭の自由などない世の中だ。
決まったルール通り、熱を入れずにやることが最善だと言われる世の中で、

東日本大震災のとき、彼らは、
私の知っている、

彼らは、



生徒のことをいつも一番に思い続けた。

そのための、避難所の運営だった。




いつ、生徒がココへ帰ってくるかわからない。

いつ、授業をできるかわからない。

いつ、生徒が助けてくれと手を伸びしてもいいように、

それが、あのときの先生方の本心だった。


だから、私たちがここを守るしかないと。





実際に、
男子生徒が、ふたりでボロボロの服を着て、肩を組んで、学校であるココへ来たのだ。

彼らを見るなり、先生方皆がかけつけ、
抱きしめた。

大丈夫だったのか。生きてたのか。
よくここへ来た。ありがとう。

そんな言葉が飛び交う中、

彼らは口を開いた。

『ここへ来れば家族に会えると思ったんだ。ここで待てば一番だと思った。
道の途中の避難所にはすべて回ったがまだ家族に出会えていない。
でも、とにかく、知ってる人に会いたくて、ここなら先生に会えるって信じてた。よかったぁ、、、会えて。
僕たちは、流されたんだ。でも、ほら、生きてんだ!すごいっしょ?えらいでしょ?先生、、。』

と、彼らはいう。なきもせず、真っ直ぐに見つめながら。



わたしは、、当時教員一年目だったが、
教員免許の薄っぺらさに愕然とした。。

彼らの方が、もはや、すべてを知っている。

そんな気がしたのだから。




とにかく、彼らに、会えて良かったと抱きしめるしかできなかった。








そして、来る日も来る日も、生徒の名簿に黒い線で斜線を引く辛さを

食いしばって耐えたのが、私の教員生活の始まりの年だ。





先ほど地震が起きたが、、


どことなく、、


そんな彼らに会える気がした。




酔っぱらいすぎたな。今日も。




みんな、、、
私は幸せに生きてるよ。みんなの分も。